大竹正春

Masaharu Ohtake, August 2010. 大竹正春、2010年8月。

砂町の空襲

私の家は当時、東京都城東区(現、江東区)南砂町1丁目958番地にありましたが、さきの戦争では家族6人のうち4人を亡くしました。父、姉、祖母を戦災で、兄を戦場で失いました。

昭和13年(1938)5月、父、大竹一男(当時38歳)は町内の皆さんの盛大な見送りを受けて戦地へ向いました。前年、中国との戦争が本格化していました。私は小学校2年生でした。2年後、父は幸いに無事内地に帰り、再び家業(そば商)に戻りましたが、昭和16年(1941)太平洋戦争が始まって、企業整備令で商売が出来なくなり、近くの町工場で働くようになりました。

昭和18年(1943)、私は中学に進学したが、次第に戦局は傾き、昭和19年(1944)6月、サイパン島に米軍が上陸し、日本本土空襲が必至となりました。10月、兄、光太郎(大正14年、〔1925〕生まれ)が徴兵年齢の繰り下げで19歳で入営し、1ヵ月後、中国へ渡った。見送りに行った父は、兄たちの部隊の装備があまりにも貧弱なのを見て、母に「あれでは駄目だ」と心配していたそうです。

Ohtake Kazuo, 大竹一男

11月1日、初めてB29一機が偵察のため東京上空に飛来し、1万メートルの上空を飛行機雲をなびかせながら悠々と飛び去るのを眺めました。11月24日、B29の編隊が中島飛行機武蔵製作所を爆撃、同月27日には砂町にも爆弾を投下、小学校の先生や生徒らが死亡しました。それを皮切りに、砂町にもしばしばB29が投弾し、被害が出ました。昭和20年(1945)に入り、2月15日、3月4日と砂町にかなりの被害が出ましたが、私の家の周りにはまだ被害はありませんでした。

そして、運命の日がやってきました。3月10日未明の大空襲はそれまでの空襲とは全く様子が違いました。前夜10時半頃からラジオはしきりに「東部軍管区情報」を放送、敵の数目標は房総半島付近を旋回中とか退去したとか伝えていましたが、突如、空襲警報が発令されました。私は急いで、家の縁の下に作った小さな防空壕に入りましたが、間もなく、母親の「そんな所にいてはだめ」という叫び声に外へ出て驚きました。すでに西北の空は沖天高く火柱のように真っ赤に染まっており、深川の方から早くも避難してくる人が出始めていました。

家の前は大通りですが、歩道に造った防空壕には近所の人たちが何人か入り、しきりに「サムハラさま、サムハラさま」とお祈りをしています。「サムハラさま」とはその頃、爆弾が落ちないようにと、仏壇に「サムハラ」と書いた紙片を貼って、母たちが拝んでいたものです。

Ohtake Mitsutaro 大竹光太郎

東の葛西橋の方角からB29が超低空で、あの大きな翼を広げて覆いかぶさるように木場の方向に夜空を探照灯の光に照らし出されながら飛んで行きます。そのうちに、バアッと辺り一帯が真昼のような明るさになりました。照明弾です。同時に焼夷弾が雨あられのように降ってきましたが、折からの北西の強風で小名木川の貨物線の線路の方へ流されて行きました。北砂町一丁目の方にも落ちたようですが警防団の詰所から帰ってきて、各自、家の者は避難させ、男たちは残って隣組を守ることになった由。祖母荒井コト(79歳)と姉、初枝(17歳、城東高等家政女学校4年)は、父の指示で、砂町小学校の先の2月に空襲で焼けた所に向って急いで家を出て行きました。

私は隣の私より一つ年上の一夫君と一緒に、母が近所のお茶屋さんから借りてきた大八車に大急ぎでふとんや荷物を乗せて避難を始めました。しかし、家からは目と鼻の先の貨物線の踏切まで来ると、周囲の状況は一変し、北西の風はうなりを生じて横なぐりの火の粉が舞い、ハシゴが空を飛び、馬小屋から解き放された馬が駆け抜けて行きます。続々と避難してくる人やリヤカーや大八車で身動きが取れず、仕方なく、自分たちの大八車は荷物をつけたままその場において、一夫君と境川の交差点から砂町小学校へ行こうと駆け出しました。

ところが、学校の手前の消防署の前で消防手たちが手を広げて、この先は行けないから引き返せという。辺りは煙が立ち込めて見えず、止を得ず境川交差点を引き返しました。もう周りは火を噴き始めています。防火用水の底に残っていた水で手拭いを浸かして口に当て、明治通りを南へ、両側が猛烈な勢いで燃え始めている中を弾正橋を渡り、約一キロ、日曹橋まで2人で一気に走りました。途中で、トタン板が飛んで来て体に当り火の中につんのめりそうになりましたが2人でしたので踏み止まることが出来ました。ところが、やっと日曹橋の手前まで来たら、また警防団の人たちが手を広げて、この先は行けないというので絶体絶命、仕方なくまた引き返しました。日本曹達砂町工場は窓から紅蓮の炎が吹き出しています。その先の反対側に大きな工場があって、ふと見ると、その脇に空地があってひとかたまりの人々がうずくまっていました。

Arai Koto 荒井コト

私たちも急いでそこに潜り込んでうずくまりました。その大きな工場は、後で聞くと黒岩鉄工所という工場だと思いますが、その工場が燃え盛っている時に傍にいた一頭の馬が小便を始めました。その水しぶきを浴びたりして、二時間、三時間と時がたち、あらゆる物が焼き尽きたのでしょうか、辺りがうっすらと見えるようになり、空地にうずくまっていた人が一人、二人と出て行きます。私たちも大通りへ出ました。

すると、マネキン人形のようなものが点々と横たわっています。おや、B29が落として行ったのかなあと思いながら弾正橋のたもとまで行くと、はっきりと焼け死んだ人々の姿だということに気付きました。橋の下を見ると水死した人々が折り重なっています。筏の縄が焼けてバラバラになり、丸太の中はすっかり焼け焦げて外側の皮だけになっています。そして境川交差点に戻って左折すると、そこには消防自動車の上に真っ黒な骨になった死体がオブジェのように、どうしてこんなに積みあがったのだろうと思うくらい、うず高く積み重なっていました。

昨夜吹き荒れた風はすっかり止んで、東の葛西橋の方角からどす黒い太陽が上がり、鈍い光がさし始めていました。貨物線の線路のそばには、昨夜大八車を置いた辺りに大きな鉄のわだちが2つ転がっていました。このわだちは戦後も20年以上、同じ場所に置かれたままでした。踏切の上から我が家の方を見ると、全くの焼野原になっており、それまで、もしかしたら焼け残っているかもという淡い期待は打ち砕かれました。

我が家の焼け跡に戻ると焼け焦げた柱もなく、焼き尽くされて我が家がこんなに小さかったのかと改めて思い知らされました。並びのお米屋さんに入荷したばかりだったお米の山が赤々と燃えていて、通り掛った人や近所の人が冷えた体を暖めています。やがて、母あき(43歳)が目が見えないようで、棒切れを杖にしてやっと焼け跡に戻って来ました。砂町小学校の近くの防火貯水池に一晩中つかって、やっとの思いで帰って来たと言ってがたがた震えています。こうして母と私は再会しましたが、父と姉と祖母はいつまで待っても戻りませんでした。

Ohtake Hatsue 大竹初枝

翌日から私たちは3人を探し始めました。砂町小学校の前を通り掛ると、すぐ脇のどぶ川の中に折り重なっている死体の上に姉の姿を発見しました。鳶口で死体を引き揚げている方に頼んで学校の塀の脇に姉の死体を運んで焼けトタンをかぶせて、この中におばあさんがいたら別にして置いてほしいと頼みました。その翌日行きましたら、祖母と姉の死体を並べてトタン板をかぶせて置いて下さいました。通り掛った年輩の女性が、泣き伏している母に「これで爪と髪の毛を切って上げなさい」と鋏を渡して下さいました。多くの方が肉親の遺体に会えなかった中で、こうして巡り会えたことは幸運でした。でも、その翌日に行ったら、すでにどこかへ運ばれていて、戦後も遺骨を手にすることは出来ませんでした。

母は、父がもしやどこかの病院に収容されているかも知れないと一縷の望みをかけて必死で捜し歩きました。私も同愛病院や九段坂病院、都立荏原病院などに同行しましたが、見付けることは出来ませんでした。また、隣り町の深川区千田町に半年前に嫁いできた義姉中林光子さん(32歳)もどこで死んだか消息をつかむことが出来ず、それまで度々我が家に来てくれたのに助けに行けず、自責の念で今も一杯です。

4月30日には浜松の、父の母親大竹みをの(67歳)がB29の爆弾で即死し、私と同年の従妹が左手の指3本を失う大怪我を負いました。3月末に母と一緒に浜松へ行き、父の死亡をお知らせした時はお元気で、浜松の市内も静かでしたが、その後の空襲で浜松もすっかり焼野原となりました。

8月15日、終戦の日を私は杉並区内の叔父の家で迎えました。この上は一日も早く兄が無事帰国するのをひたすら待ちわびていました。ところが、昭和21年(1946)5月、長男である兄、光太郎が昭和20年8月19日に中華民国山西省で戦病死した旨の公報が届きました。あまりな知らせに、一日千秋の想いで待っていた母の嘆きはいかばかりだったでしょう。我が家に戦争がもたらしたむごさに、母は後年、「この時ばかりは後追いをしたかった」と書き残しています。

Masaharu Ohtake, August 2010 (2). 大竹正春、2010年8月 (2)。

Mr. Ohtake points out where he saw the mountain of blackened corpses atop a fire engine. 消防車の上に積みあがった死体の場所を案内する大竹さん。

私は3月10日の空襲で焼け出されて、その夜は杉並区内の叔父宅に避難し、翌日から毎日、国電の中央線で御茶の水駅駅まで来て下車し、京葉道路に出て両国を通り、錦糸町から千田町の義姉宅の焼け跡を経て砂町まで歩きました。時々、亀戸から大島を通ったり、清洲橋を渡って清砂通りを歩いて砂町へ出たりもしました。空襲後一週間くらい総武線は不通だったし、都電も二、三年動かなかったように思います。どこへ行くにも歩くしかありませんでした。

私は一体これは何が起こったのか知りたいと思いましたが、新聞もラジオも被害の状況は何一つ伝えませんでした。その後、我が国は戦争が終わり復興を遂げ成長への道をひた走りましたが空襲被害者に行政が目を向けることはありませんでした。東京は戦後新たな住民がどっと流入しましたが、空襲被害者の多くが元の場所に戻ることは出来ませんでした。国も都も区も、どこで誰がどのように死んだのか、遺族や、傷つき病に倒れた人や親兄弟を亡くして孤児となった人がどうしているか調べようとはしませんでした。

東京都慰霊堂は本来、関東大震災の犠牲者のために建てられたもので、横網町公園内の展示物や復興記念館の展示品は今もほとんどが震災のもので、東京都が平成13年(2001)に戦災犠牲者名簿を納めるモニュメントを造っても違和感は否めず、納骨堂にある四五〇個の大きな骨壺に眠る10万余名の遺骨も決して安住しているとは言えず、独立した追悼施設が出来ることを願う遺族の心が癒されることは決してないでしょう。

大竹正春記